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越谷市 Koshigaya City

現在地

更新日:2017年2月6日

ページ番号は58473です。

越谷の歴史 解説と写真(古代〜近代)

古代「古くは海の中、見田方遺跡から土器」

 今から約4〜5000年前、縄文時代後期のころ、越谷を含む約10メートルの等高線までの地は海の中にありました。やがて今から約3000年前になると、地球の気温が現在のような温度に下がり、海が後退し河川によって運ばれた土砂によって沖積地が形成されました。
 人々は丘陵地や台地から稲作に適した沖積地に移り住み、自然堤防に集落を構え農業を始めるようになりました。こうした中で、越谷に人々が住みつくようになったのは、大相模地区の見田方の地から竪穴式住居跡が発見され、数多くの土器や装飾具、モミなどが出土したことから、古墳後期から古代にかけてと推定されます。
 その後、大和朝廷により国や郡が設けられ、当時、越谷は元荒川を境に武蔵国と下総国、綾瀬川を境に武蔵国埼玉郡と足立郡に分けられていました。このころ大相模郷に天平勝宝2年(750)に大聖寺が、貞観2年(860)に野島の浄山寺が創建されたと伝えられています。

中世「中世の動乱と板碑」

 平安末期から鎌倉期にかけて武士が登場しましたが、この武士を中心に新田開発が進められていきました。越谷には武蔵七党のうち野与党の一族に古志賀谷(越谷)二郎為基、大相模二郎などの名がみられます。武蔵七党野与党の氏神が久伊豆神社といわれています。
 また、中世には生前に死後の冥福を願って立てられた石の塔婆が数多く建立されています。これを板石塔婆とも板碑ともいいます。越谷にはこの板碑は建長元年(1249)銘のものをはじめ200基以上が確認されており、当時の人々の生活の一端をうかがうことができます。子育てで有名な呑龍上人が住職を務めていた平方の林西寺をはじめ、迎摂院、安国寺、天嶽寺など市内の主な寺院は、中世の開山を伝えています。
 鎌倉期から南北朝を経て戦国時代を迎え、天正2年(1574)に上杉謙信の関東撤退後は北条氏が関東を制覇することになりました。

近世「日光道中第三の宿場町の誕生」

 天正18年(1590)7月、豊臣秀吉の関東攻めで北条氏は滅ぼされ、かわって徳川家康が関東へ入国しました。徳川氏は荒川や利根川の流路の大改修を行うほか、葛西用水の開発など幾多の用排水路を整備しました。
 その後、奥州街道(のちの日光道中)に越ヶ谷宿が取り立てられました。宿場は公用荷人運輸の中継所として設けられたものです。街道沿いに新しく家並みが造成され、天保14年(1843)には、戸数1005軒、人口4603人を数え、旅籠(はたご)屋は、本陣、脇本陣を含め57軒に及びます。
 徳川家康は民情の視察を兼ね、鷹狩りをしながら各地を訪れていました。はじめ寺社や民家などで休んでいましたが、しだいに家康の別荘である御殿が設けられていきました。増林にも御茶屋御殿が設けられましたが、慶長9年(1604)に越ヶ谷に移されました。

近代「近代化と交通の変革」

 現在の越谷市域は明治元年(1868)武蔵知県事、同4年には埼玉県、同12年には南埼玉郡の管轄となり、同22年には市制・町村制で2町8カ村になりました。
 この間、学校や郵便所、町村役場が整備されました。同26年には千住・粕壁間に千住馬車鉄道が、同32年には千住・久喜間に東武鉄道が開通しました。
 当時の停車場は北千住、西新井、草加、越ヶ谷(現在の北越谷)、粕壁(現在の春日部)、杉戸(現在の東武動物公園)、久喜の7停車場でした。
 そのころ越ヶ谷町などの貨物輸送は、綾瀬川などから舟で運んでいましたが、大正9年(1920)4月に越ヶ谷町に停車場が開設されてからは鉄道輸送に切り替えられました。
 また、大正2年(1913)には越ヶ谷町・大沢町に初めて電灯がともりました。

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