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越谷市 Koshigaya City

更新日:2019年9月27日

ページ番号は58487です。

史跡・旧跡

越谷市内の史跡

清浄院開山塚(市指定文化財)

 浄土宗大松清浄院は、その由緒書によると開山僧賢真が嘉暦元年(1326)の伝寂を伝える古刹です。開山塚と称される平面円形の墳墓があり、ここには、嘉禄元年(1225)銘の板碑があったといいます(現在不明)。
 この墳丘は砂土であったため、空気が入り埋葬者の姿や形はことごとく土に化し、誰であるか識別できませんでしたが、開山塚と称されていることから開山僧賢真上人の墳墓であるともみられます。開山塚の高さは1.8m、東西13.5m、南北13mで、もとは竹や雑木に覆われていました。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」
   平成10年3月31日発行

周辺地図

見田方遺跡(市指定文化財)

 大成町周辺はもとは河川乱流路の自然堤防で周囲より高いところであったと考えられます。その後、河川の流路は現在の元荒川筋に定流したため、元荒川筋の自然堤防が発達、あるときの洪水で竪穴住居の人々は、この元荒川筋に移動したとみられます。
 このことから現在のJR武蔵野線の北側に広がる大相模地区の水田辺りに竪穴住居の集落があり、古代人が水稲を栽培し、魚をとり、衣服をつくっていたことが推察されます。集落の広がりは約16haに及ぶものであったが、利根川、荒川等の河川に沿った微高地であるため洪水によって全滅したと考えられています。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」
   平成10年3月31日発行

蒲生の一里塚(県指定文化財)

 一里塚は江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上に榎、松、杉等が植えられ、度道程の目標や人馬賃銭の目安になり、また、旅人の休憩の場などに用いられました。
 現在は高さ2m、東西幅5.7m、南北7.8mの東側一基だけが残っています。県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚です。

出典:越谷市・越谷市観光協会「郷土越谷散策マップ」

周辺地図

越谷吾山句碑(市指定文化財)

 越谷吾山は、越ヶ谷新町会田家の出身で享保2年(1717)の生まれです。若年より江戸などの文人と交流して俳諧に精進し、のちに江戸へ出て芸道上の高い位である「法橋」に推挙されました。さらに安永4年(1775)には、方言学の祖と評価される諸国の方言を集大成させた『物類称呼』を刊行、その他数々の俳諧を著しました。天明7年12月(1787)江戸で没し深川霊厳寺に葬られました。
 この越ヶ谷久伊豆神社境内の吾山句碑は、越ヶ谷宿の伊勢太々講中によって嘉永2年(1849)1月に建碑されたものです。これには法橋吾山として、「出る日の 旅のころもや はつかすみ」との句が刻まれています。
 おそらく、吾山が越ヶ谷を去って江戸へ行くときの句だといわれています。自然石で高さは115cm、幅は90cmです。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」
   平成10年3月31日発行

周辺地図

越谷市内の旧跡

越ヶ谷御殿跡

 越ヶ谷御殿は、徳川家康放鷹時の宿場所として、慶長9年(1604)に設営されました。この地は越谷郷の土豪会田出羽の陣屋でしたが、家康の求めによりこの地を差し上げたといわれています。
 規模は現御殿町一帯のおよそ6町余歩で、家康、秀忠はしばしば鷹狩りに越谷を訪れています。のち、明暦3年(1657)の江戸大火による江戸城焼失には、この越谷御殿が将軍の居城として、江戸城二の丸に移されました。

出典:越谷市・越谷市観光協会「郷土越谷散策マップ」

周辺地図

千徳丸供養塔

 瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。
 なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没しました。また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」
   平成10年3月31日発行

周辺地図

平田篤胤の仮寓跡(県指定文化財)

 越ヶ谷久伊豆神社境内のいおりは、平田篤胤の仮寓跡といわれています。平田篤胤は、秋田の大和田清兵衛の四男で、安永5年(1776)に生まれ、成長後、平田藤兵衛の養子となって江戸に居住しましたが、国学に専念して、文化元年(1804)には、「真菅乃屋」の家号で国学塾を開きました。のちにこの家号は「伊吹の舎」と改めましたが年ごとに門人がふえていきました。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」
   平成10年3月31日発行
 

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