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越谷の戦争・歴史を知ろう〜荻島飛行場

ページ番号1686です。 2022年10月26日

しらこばと公園

海なし埼玉県民にとって、心の海「しらこばと水上公園
夏になると、プール利用者で越谷市内外からの人で賑わいます。
その正門前の、どこまでも続く真っ直ぐな道が、 実は・・・
第二次大戦末期に作られた軍用飛行場の滑走路跡だということを
ご存知でしょうか?

(←左の写真は、ひまねねさんよりお借りしました。)

 

ロンデン飛行場史話〜荒谷仁

一口に飛行場と言っても、その面積は広大なものである。一般庶民の住宅用地とは異なり、 天文学的数値の広さが必要である。
今日、文化都市として発展し、住宅、諸施設の立ち並ぶ越谷地区において、飛行場となる面積の空閑地など探そうとしてもおよそ、不可能極まりない、お話にもならな話であろう。
ところが、今を遡ること70年前、私達の住んでいる越谷に、一本の滑走路と誘導路を備えた本格的な飛行場が存在した事実を、何びとが信じることだろうか。
世代交代とでも言うのだろうか、地元の人ですら飛行場のあったことを知らない人が増えてきている現在である。
もっとも、今75歳になる高齢者でも、当時は生後5歳の乳飲子であり、当然、飛行場のあったことなど知る由もなかろう。私のように、八十路を生きて来た者だけが、辛うじて記憶の中に留める史実といえよう。
史実と言っても、明治・大正それ以前の書物による史実ではなく、私の小学校4、5年生ごろの記憶による言わば「生きている史実」であると、私は少なからず自負している。
これらの事実は、当時を知る人が次第に物故への途を辿り、また、これらの事に関心を持たなければ、誰も書くことはないだろう。そして益々、人々の「語り草」から消えて行くのみであろう。私は、それが惜しい、寂しい。私自身、己の僭越さを省みず、恥を忍んで書くことにより、歴史は新しく甦るものと信じている。

さて、その飛行場が、越谷のどこの地区にあったのだろうか。
現在の東武スカイツリーライン・北越谷駅が「武州大沢駅」と呼ばれ、西口広場はもとより、 元荒川までの道路もなく、当然、川に架かる「神明橋」もなかった時代である。
現在の神明橋を渡り、浦和街道を直進する。バイパスを越して鳩ヶ谷、大門、浦和に至る。
同街道の荻島・西新井地区の「大石橋」なる橋を渡り、即右折して300メートル余り。
一方、同じく神明橋を渡り岩槻街道を右折し、右側に蛇行して流れる元荒川を見つつ直進すると、南荻島、砂原、小曽川、野島を経て旧岩槻市に至る。途中、バイパスを越して間もなく左側に、荻島小学校、道路を挟んで農業協同組合がある。
小学校を越してすぐ左折して300メートルほど、この地点と前述の大石橋地点を線で延長して鉤の手に繋いでもらう。(図参照)
北は、「しらこばと水上公園」を含め、西側は、浦和街道の西新井地区と、岩槻地区の境界よりやや西新井よりと考えられる。
これにより、東西南北、南北に長く東西に短い長方形(矩形)の大きさの面積が想像つくものと思う。
ロンデン飛行場略図
このようにして、各地区に跨がる飛行場の名称は、となるとその土地どちにより様々である。
東武よみうり新聞に見ると、越谷市史では「荻島飛行場」、岩槻市史には「新和(にいわ)飛行場」、そして地元では「論田飛行場」などと呼んだが、正式名は不明なママである。私の子どもの時の呼び名は「ロンデン」だった。それも、「論田」と漢字を使ったのは、後年の話である。ロンデンの意味と語源は定かではなく、“永久に霧の中”であろう。

平成26年5月5日号の東武よみうり新聞紙上に「滑走路完成後一度も使われない『幻の飛行場』なる記事が掲載された。私も八十路を越したが、遠い少年のころのロンデン飛行場の記憶は、今も克明に覚えており、記事の内容と私の記憶にかなりの齟齬(くい違い)が感じられ、この文を認める気持ちになったのである。

元々、ロンデン飛行場建設の目的は、太平洋戦争も終息の兆しが見え出し、米軍の本土爆撃を想定し、その米機を迎え撃つ友軍機(日本機)の給油基地として急遽、朝鮮人強制労働者を主体として昼夜兼行、突貫工事で仕上げた、言わば“泥縄”(泥棒を押さえてから縄をなうの意)式工事の飛行場だった。各地区の農民は、生活の糧を得る尊い田畑を建設のため強制的に没収されたことは言うまでもなかったことだろう。
建設のための資材堆積場は、現在の越ヶ谷小学校のやや右寄りの東武線下だった。当時の鉄道は高架ではなく、土手のような上に線路が引かれてあった。その下の草地に資材を下ろし、 浦和、岩槻両街道を連日、トラックが砂塵を巻き上げながら猛スピードで運搬をしたのだった。
終戦前から戦後にかけて私は、亡父の事業の失敗で、前述の大石橋を左折した北後谷前谷地区に居住していた。学校は飛行場のすぐ前にあった荻島小学校だった。小学生も高学年になると、軍の命令で授業をさき、飛行場の芝植えや草刈りに駆り出された。

「完成後、一度も使われない滑走路」ーーーー
しかしさに非ず。終戦近く、多くのベテラン操縦士が戦死をし、予科練出身の未熟な操縦士が乗った戦闘機が、右車輪を滑走路から外し〈でんぐり返り〉、整備兵がとんで来て逆さまになった機の天蓋(搭乗口のふた)を開け、軟弱な地面に穴を掘り操縦士を引っ張り出すという有様を目の当たりに目撃した。
同じく、誘導路の脇で芝植えをしていた時だった。通称「雷電」と言う胴体のずんぐりとした戦闘機が着陸し、みんなで手を振って迎えた。それに対し操縦士は天蓋を開け手を振って答えてくれた。その額には、「日の丸」の鉢巻が巻かれていた。当時大空に限りない憧れを抱いていた私達は、狂喜したように手を振り返し、感激の一瞬だった。
「屠龍」爆撃機も着陸している。双発機だった。ロンデン飛行場は、農地を埋め立てて建設された急拵えの滑走路だけに地盤が軟弱で、大型機が着陸した時滑走路が撓みゆらゆらと揺れる様は、子ども心にも大丈夫かなと、若干恐ろしさを感じたものだった。

ここに特筆すべきことは、飛行場建設の主目的であった滑走路が現存していることである。
幅員こそ6メートルほどに削られてはいるが、水上公園の入り口と手前の駐車場の間から、 南の西新井地区近くまでの一直線の道路(砂原在住・斉藤勇氏〈80歳〉証言)。筆者、 実地検証。それがロンデン飛行場滑走路であり、唯一飛行場の今に残る痕跡である。私も斉藤氏に話を訊き実地を踏むまで全く知らず、驚いた次第である。

真夏の暑い日、日本は終戦を迎えた。
連合軍(400人程度)が飛行場の処理のため進駐するまでのわずかな間、無統制で誰でも自由に入ることができた。私達は、興味と珍しさで、びくびくしながら入り込んだ。
飛行場の奥深く、そこには生まれて初めて間近に見たり触れたりするこのできる二機の「隼」戦闘機が放置されてあった。私達は、狂気のように戦闘機によじ昇り、操縦席に座り込み搭乗員の気分で操縦かんを自由に動かしたり、目の前の複雑な計器類に触れたり、 逆に、主翼の昇降舵を動かし、簡単に操縦かんは動くものだと、その原理に驚いたもの
だった。
それら二機の戦闘機は、連合軍の手により無残にも壊され、スクラップとしてトラックに無造作に積まれ搬送されて行った。
日本の航空のあわれな終焉だった。

進駐軍が任務を終え撤退しなお、滑走路が無疵で使用可能な時、米軍のP51戦闘機がバッテリーの不具合等で不時着した。私達の下校時だった。戦闘機は一晩泊まった。
翌日は日曜日だったので私はそのことが気になり、朝早くから様子を見に行った。
午前中に米軍の整備車が到着し、バッテリーらしき黒い箱状のものを交換、修理し、 機は飛び去って行った。
恐ごわ離れた所から状況を見ていた私達を整備士が手招きし、見たことも食べたこともない「チューインガム」を一枚ずつ渡してくれた。ゴムのような舌ざわりだったが、 その美味さは今も口中に残っている感じである。

ロンデン飛行場の当初の目的であったB29を迎え撃ち、華々しい空中戦は、ついぞ見られず仕舞いだった。
ただ一度、都心での爆撃を終えたB29が、私達の上空で右旋回し、房総方面に去ろうとする変態に、勇敢にも一機の友軍機が猛追したがたちまち、機銃掃射を受け黒煙を吐き吐き、開発前の越谷市弥十郎地区の田に機体が見えないほど深く埋没し、墜落して果てた。
後年、自衛隊の手により掘り穿ち(穴を掘る)、バラバラになった機体の一部を回収したことは、市役所の戦後処理作業の一環として、記録に記載されているだろう。
当時、岩槻海道沿いには、敵機の襲来を探知する「電波探知機」や、夜間に空を照らす「探照灯」が敷設されていて、付近の人家の林や畑にはそれらの兵の兵舎が建てられていた。荻島地区は正に、軍事基地一色だったといえるだろう。

しらこばと水上公園は、庶民の夏のレジャー施設として大いに愛され利用されている。
かつて同公園は飛行場時代、一部、兵士の射撃訓練場であったという(斉藤氏談)。
飛行場の水はけを良くするための「暗渠(あんきょ)排水」も、雑草に覆われているものの現存している。
今や日本は、世界屈指の経済大国に発展している。つらつら顧みるならば、飛行場建設における朝鮮人労働者に対する奴隷的な扱い。朝鮮国内における日本人の彼らに対する非人間的な行為。それらが彼らの日本人に対する怨念として心に深く根をさし、 真に友好関係に繋がらないことは、否定する余地もないであろうと、愚考する。

(漢字・送り仮名、改行、その他、原文のまま転載しておりますが、元々の縦書きを横書きにする際に、数字のみ算用数字に変換しました。また、WEBでの読みやすさのために、数段落ごとに改行を広く取っております。↓現代地図参照)

現代地図

川のあるまち

川のあるまち33号

文化総合誌「川のあるまち-越谷文化」は、 市民の皆様から投稿された、心のこもった作品でつくる文化総合誌です。随筆、レポート、 小説、評論、詩、短歌、俳句、川柳、 ジュニア・学生、写真、スケッチ、特集の12部門で構成されており、写真、スケッチについては、カラーページにて作品を紹介しております。

(以上、越谷市公式ホームページより転載)

「ロンデン飛行場史話」は、第33号(平成27年3月発行)
のレポート部門で優秀賞に選ばれました作品です。

 

編集後記

著者の荒谷さんとは、サンシティホールで毎年開かれている歌の企画で、私が伴奏を務めた折に知り合いました。わずが10分の事前の伴奏合わせと当日のみのお付き合いですが、 実直で温和そうなお人柄と、年齢を感じさせない艶やかなテノールが、とても印象的で記憶に残っておりました。その後まもなく、読売新聞で記事を拝見した時には、ピンと分かりましたし、いつかゆっくりとお話を聞いてみたいと思っておりましたら、意外にもすぐにそのチャンスは訪れました。

この「ロンデン飛行場史話」を読ませていただいた時は、まるで目の前にあるかのごとき鮮明な光景、仁少年の興奮や息遣いが伝わってくる迫力に、とても感動いたしました。

この度、全文をここに転載する許可をいただき、少しでも多くの方に、この史話を知っていただけることを誠に嬉しく思います。ここに登場する「しらこばと水上公園」やそこに至る道、建設資材が置かれていたという辺りは、私が日頃、何度も行き来する場所です。自転車に子どもを乗せて、フーフー言いながら走っている直進の長い道・・・
それが、軍用滑走路の跡だと知った時には驚きました。
戦争が、決して他人事ではないという切迫したものを感じ、平和への願いを新たにしました。

後日談

このレポート終盤にあります「B29に撃墜された友軍機と、戦後の機体回収」の話は昨年の「こしがや平和フォーラム」(於:サンシティ・ポルティコホール)にて詳しく展示されておりましたことを、この記事を書きながら思い出しました。
文中には「弥十郎地区」とありますが、現在の地名で言うと「東大沢三丁目」ウェルシア薬局のある辺りのようです。回収作業は、戦後すぐではなく、ずいぶん後になってからのようですが、(これにも小説のような感動的な経緯があるのです。)
すぐ近所に住んでいる方(40年以上住んでいる)に聞いてみましたら「そういうことがあったとは知らない。」そうです。
やはり、こういう名もなき小さな歴史は語り継ぐ人がいないと、すぐに人の心から消えてしまうのですね。いつか、この話ももっと詳しく知りたいと思っています。

この記事を書くにあたりインタネットで色々と検索しておりましたら、 周辺の跡地を非常に詳しく探索しておられる方のブログを見つけましたので
ご紹介いたします。
当時の航空写真、現在の写真なども多数ございますので、ぜひお読みになってみてください。

ひまねね'sぶろぐ「越谷の飛行場跡探索・その1〜3」

また、越谷市には「NPO法人越谷市郷土研究会」というのもあります。
そちらにも、戦後60年幻の飛行場(加藤幸一氏)
戦争遺跡・幻の越谷陸軍飛行場(加藤幸一氏)
こちらも、ぜひお読みください。
「NPO法人越谷市郷土研究会」では、他にも越谷市内の様々な歴史について研究されていますので、身近なところの歴史を知るきっかけとしていただければと思います。

(2017年8月byクワイエメンバーアリス)

 

地図

ロンデン飛行場跡

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