越谷の河川

更新日:2021年7月27日

河川の歴史文化などについて、掲載しています。

現在の中川

中川に生息する弁慶蟹

中川の支川が、古利根川、元荒川というところからもわかるように、中川は、江戸時代初期頃までは利根川や荒川の本流であり、その当時「中川」という川はありませんでした。
当時、利根川は太平洋ではなく現在の東京湾に注いでいましたが、水害対策や水田開発などを目的に徳川家康により、利根川を東京湾から太平洋(銚子)へと東に流路を替える「利根川東遷事業」や荒川を西に移し入間川と合流させる「荒川西遷事業」などの大規模事業が実施されました。
利根川を東に、荒川を西に、そして残った川が中川ということになります。古くから洪水に悩まされてきた中川流域の人々は、ため池を作り農業用水を確保したり、畑や田んぼ、住居の位置を計画的に配置したりするなど、利水と洪水防御の両立に努めてきました。
20世紀後半には、水質悪化が指摘された中川ですが、現在、水質の改善とともに多くの魚類や、エビ・カニ・貝類が生息しています。

元荒川とボート

まちの川

葛西用水は、現在のように分離されるまで、大沢の地蔵橋先の御殿町で元荒川と合流していました。水もきれいで、水量も豊かでしたので、夏場には恰好な遊泳場になっていました。
しかし、昭和30年代に入り都市化が進み、工場の廃液や家庭排水が流れこみ、溜井の水は汚濁の一途をたどりました。よって、埼玉県では昭和35年から、元荒川の抜本的な改修として瓦曽根溜井の用水分離工事に着手しました。
この事業では、農地の減少で、用水の需用が激減した葛西用水(逆川(さかさがわ))を大沢地蔵橋地先で元荒川と切り離し、元荒川の下を伏越樋管(ふせごしひかん)でくぐらせて、越ヶ谷御殿町から柳町まで新水路を開きました。柳町から瓦曽根溜井までは、中土手が築かれ、2筋の流路となりました。
この工事はおよそ昭和42年にはほぼ終了しましたが、一定幅に狭められた葛西用水路の溜井敷西側は埋め立てられて、現在の越谷市役所や県の地方庁舎が建設されました。
なお、通称「赤水門」と呼ばれ、長く親しまれてきた瓦曽根堰は、平成8年に撤去され、上流30mに新たな堰が建設されています。

越谷を流れる河川を図上で紹介します。
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