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越谷市 Koshigaya City

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更新日:2022年9月12日

ページ番号は12323です。

広報こしがやお知らせ版 令和3年8月の特集15面(カラー面)

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特集 今、伝えたい私の戦争体験

 市では、「越谷市平和都市宣言」(平成20年11月3日宣言)の趣旨を踏まえ、平和に対する思いを深めるとともに、「戦争の悲惨(ひさん)さ、平和の尊さ」を後世に伝える事業を行っております。今回は、市内在住で「平和の語り部登録ボランティア」として活動されている渡邉(わたなべ)まさ子さんの著書「母とふたりで二人三脚」より戦争の体験談をご紹介します。

「母とふたりで二人三脚」

 皆さんはご存知でしょうか。
イメージイラスト1941年に太平洋戦争がはじまり、北海道から沖縄まで、日本中の至る所に爆弾が落とされ焼け野原となり、大勢の人が亡くなったことを。
 昭和15年6月30日、東京市向島区(現・東京都墨田区)で父「千秋」、母「はる」の次女として私「まさこ」が生まれました(長女はすでに逝去)。昭和16年12月、太平洋戦争が始まりました。それでも当初は今までと変わらぬ生活をしていました。そして昭和18年10月、妹の「よしえ」が生まれ四人家族になり家はますます賑やかになりました。そのうち戦争もだんだん激しくなり、防空壕(ぼうくうごう)に入ることが多くなりました。夜は灯りが漏れないように電球に黒い布を巻き、その下で母は妹のおしめを替えていました。
 昭和20年3月10日、あの悪夢のような大空襲の日、父は警防団の仕事で留守でした。深夜、母に起こされて外に出ると家の周りはすでに真っ赤な火の海になっていました。妹を背負った母は、私を連れていつも入る防空壕へ急ぎました。後から来た近所のご夫婦と一緒に壕(ごう)に入ろうとしましたが、いっぱいで入れません。爆弾がいつ頭の上に落ちてくるかわからないし、炎もどんどん広がってきて、私は母の手につかまったまま怖くてぶるぶる震えていました。一緒にいたおじさんが壕のそばにある私の家に戻り、おんぶ紐(ひも)で私を背負うと頭から布団を被りました。私たちは猛火の中、荒川の土手に向かって必死で逃げました。

渡邉まさ子さん
著者 渡邉まさ子さん

 そのうちに空がだんだんと明るくなり、私たちも家に戻ってみることにしました。やっと家まで来ると、そこは何もない焼け野原になっていました。そして爆弾でめちゃめちゃになった防空壕の中を掘って私たち三人を探している父に出会いました。父は私たちを見つけると、涙をぼろぼろ流しながら「生きていたか、良かった」と何度も言って喜びました。
 私たちが入れなかった壕の中では、昨日まで一緒に遊んでいたお友達や近所のおじいさん、おばあさん、おばさんや赤ちゃんがみんな亡くなっていました。私たちは奇跡的に怪我もなく助かりましたが、身の回りの物は何も無くなってしまいました。昭和20年8月15日にやっと戦争が終わり、父は「もう爆弾は落ちてこないからね」と私に言いました。
 しかしその後も大変な日々は続きました。昭和21年の秋頃から父の具合が悪くなり、とうとう寝込んでしまいました。毎日の暮らしはますます苦しくなり、糠(ぬか)パンやさつまいも一個だけの時もありました。母は働きに出ていたので、私が父と妹の世話をしていました。
 昭和22年の1月、妹のよしえが風邪をひき、高熱を出して肺炎になり14日に亡くなってしまいました。薬も食べ物もなくて何もしてあげられないまま3歳の短い命を閉じ本当に可哀想でした。父も母もとても悲しみ辛い毎日を過ごしていました。
 2月25日の朝に私は母に呼ばれ父の枕元に行きました。父はやっと出る声で「まさこを頼む」と母に何度も言い、母は「うんうん」と頷いていました。そうしてその日のうちに父も妹の後を追うように亡くなってしまいました。

イメージイラスト
イラスト:渡辺ゆづる

 3月のある日、母は「まさこ、おばあちゃんのところに行こう」と言い、二人で茨城の祖母のところに向かいました。東武線の玉ノ井駅(現・東向島)から電車に乗り、野田線の愛宕駅に着いたのですが、バスは一日に午前と午後1本ずつしかでておらず、その午後のバスがでた後でした。母の実家は駅から遠く、とても子供連れでは歩いてなど行けません。そのうち暗くなってきたので、仕方がなく野宿するところを探し回りましたが、どこにもそんな場所はなく、結局明るい駅の方へ戻ってきてしまいました。母は何も言わず、ただ線路をじっと見ていました。その時私は何か言わないといけないような気がして、「お母ちゃん、お腹すいた」と言うと、母は「そうだね、朝に食べたきりだね」と答えました。
 それから二人で線路の脇に見えた「赤ちょうちん」のお店に入りました。母はそこで野菜の煮物を一皿だけ頼みました。「お母ちゃんも一緒に食べよう」と言いましたが、母は「まさこ、食べなさい」と言って手をつけませんでした。しばらくして、おばさんがおにぎり二つと煮物をもう一皿持ってきて「食べなさい」と机に置いてくれました。母が「あの、お金がないので」と断ると、「いいからお食べなさい」と言ってくれました。
 すると母は急に泣き出してしまいました。店のご夫婦が「どうした」「何かあったんだね」とたずねてこられ、店を閉めた後で母は二人に今までの事を話しました。二人は「大変だったね、今日は私の家に泊まって、明日おばあさんの所に行きなさい」と言って、少し離れた自宅に連れて行ってくれました。次の日の朝は、ご飯をご馳走してくださり「頑張るんだよ」と、見送ってくれました。
 あの戦争で日本中の人が辛く、悲しく、苦しい毎日を送りました。悪夢のような戦争が、二度と起こらないことを願わずにはいられません。この平和がいつまでも続くことを祈ります。多くの犠牲の上に今があることを忘れず、毎日を大切に生きていかなければいけないと思います。

「平和の語り部登録ボランティア」募集

 市では、戦争を体験された方や海外における平和活動を体験された方で、小中学校や地区センターなどで平和の大切さをお話しいただける方を募集しています。
■申込み:直接または電話、ファクス、メールで下記へ
【お問い合わせ】総務課(第二庁舎2階) TEL 048-963-9140、ファクス 048-963-7625、Eメールsomu@city.koshigaya.lg.jp

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